なぜイギリスとザンジバルは対立したのでしょうか
「なぜスパイスの島で戦争が起きたのか」と疑問に思う方も多いはずです。理由を一言でいうと、王位の後継ぎ問題に、イギリスの思惑が絡んだからです。19世紀後半、ザンジバルはイギリスの「保護国」という立場に置かれていました。保護国とは、形の上では独自の王様が国を治めながら、外交や重要な決定については保護する側の国、つまりイギリスの意向を強く受ける、という関係のことです。
ザンジバルでは新しい王様が即位するときにも、イギリスの承認が必要とされていました。ところが1896年、ある人物がこの手順を無視して、自分の判断だけで王位に就いてしまいます。イギリス側はこれを見過ごすことができず、強い態度で応じることになりました。この対立の背景には、実はもう一つ、数年前に結ばれたある取り決めが関係しています。
決め手は「ヘリゴランド・ザンジバル条約」でした
イギリスがザンジバルに強い発言力を持つようになった背景には、1890年に結ばれた「ヘリゴランド・ザンジバル条約」という取り決めがあります。これは、当時アフリカに勢力を広げていたイギリスとドイツという二つの大国が、東アフリカでのそれぞれの勢力範囲を話し合いで決めた条約です。この条約によって、ザンジバルはイギリスの勢力範囲、今のタンザニア本土にあたる地域はドイツの勢力範囲、という形ですみ分けが決まりました。
名前に「ヘリゴランド」という言葉が入っているのは、この条約の中で、北海にあるヘリゴランド島という別の島の扱いも一緒に話し合われたためです。ヨーロッパの島とアフリカの島が、一つの条約の中でまとめて取引の材料になっていた、というのは今の感覚では驚くべきことですが、当時はよくある話でした。こうしてザンジバルは、事実上イギリスの影響下に置かれることになったのです。
