第1回アテネ大会を沸かせた、無名の羊飼いランナー
1896年の第1回アテネ大会のマラソンには、地元ギリシャの選手として、スピリドン・ルイスという青年が出場していました。もともとは羊飼いをしていた、無名の存在だったといわれています。
レース前半は他の国の選手がリードしていましたが、レース終盤になって次々と失速していきました。そのあいだにルイスが着実に順位を上げ、ついに先頭に立ちます。
ルイスが競技場に姿を見せた瞬間、開催国ギリシャの観客は総立ちになったと伝えられています。皇太子までもが一緒に走って喜びを表したというエピソードも残っており、この盛り上がりが、その後マラソンが世界中に広がる大きなきっかけになったとされています。
この熱狂の翌年、1897年にはアメリカでボストンマラソンが始まるなど、マラソンという競技そのものが一気に注目を集めていきました。しかし、次の大会ではまた別の問題が起こります。
1900年パリ大会で起きた、コースをめぐる混乱
1900年に開かれたパリ大会でも、マラソンは行われました。この大会は距離こそ約40.26キロと大きくは変わりませんでしたが、運営面で戸惑いが多かった大会として語られることがあります。
コースの案内が今ほど整備されておらず、選手が道に迷いかけたという話も一般的には伝えられています。街中を走るコースだったため、交通量の多さも選手たちを悩ませたようです。
このように、初期のマラソンは「距離が違う」だけでなく、コースの管理そのものが手探りの状態でした。今のような、厳密なコース測定やルール作りは、まだこれからの時代だったのです。
次のページでは、少し視点を変えて、42.195キロという数字そのものに隠れた単位の話をご紹介します。
