日本案が届いたとき、先客がいた
1980年、日本は完成した非常口の絵を、国際規格の案として国際標準化機構に提出しました。ところが、この分野の議論は日本が加わるずっと前から進んでいました。
当時、非常口の国際規格はソビエト連邦の案でほぼ内定していたとされています。数年かけた審議の終盤に、日本が別の案を持ち込んだわけです。
反応は激しいものでした。ソビエト側からも国際の委員会からも強い拒否があり、日本政府には正式な抗議文が届いたと太田さんは記しています。新聞もこの騒ぎを大きく取り上げました。今の穏やかなイメージからは想像しにくい話です。
それでも日本案は消えませんでした。決着は、ヨーロッパで開かれた会議でつきます。
ロンドンの会議で、ソビエト案が取り下げられた
太田さんの記述では、日本政府の意向を受けて、太田さん自身がデザインの立場から反論を行いました。専門家として、なぜこの形が伝わるのかを説明したわけです。
そして1982年4月のロンドンの会議で、ソビエト連邦は自国の案を取り下げます。結果として、日本案が唯一の国際規格案となりました。国内で告示が施行された、まさにその月の出来事です。
ただし、そのまま採用されたのではありません。1983年3月のノルウェーの会議では、フランスとイギリスから部分的な修正案が出されました。フランス案は緑の四角の下側を閉じるというもの、イギリス案は左右の壁の下にも白いすき間を入れるというものでした。
細かい話に見えますが、この議論が今のマークの形に関わってきます。世界共通の絵として正式に決まったのは、それから数年後でした。
